10代の時に読んだ富野由悠季の小説で

Zだったかνだったかわすれたのだけど

親父はいい時に死んでくれたんだよな。というようなセリフがあって、未だに頭の隅にこびりついている。

もっとも近しい他人である親との関係がわずらわしいのは当然であろうと思うけど、歳をとるたびに悩ましさが増してくる。いや、今まで見えなかった問題が見えてきてしまう、いやでも実感してしまうというのが近いのかな。

およそ孝とは縁遠い人間であるわけで、人に会えば生きててすいませんとあやまるしかない自らを思うと、親はこれから生きてても良いことなんてないよな、と思わざるをえない。自分の老いを自覚し始め、思うように動かなくなる体をもって自らの未来はもう無いのだと思い知らされる時に映る風景とはどんなものだろう。

その風景には映ってほしくないな、と思わずにはいられないのだが。親子とは因果なもので。
風景に映る不孝な我が子は、既に青年ではなく、自分が信じた未来への幸せを増やしてくれそうにない。そんな景色は絶望ではないのだろうか。

憎んだこともあった。だが、殴り殺すことはなかったので結局はたいした憎しみではなかったのだろう。嫌悪したこともあった。しかし、相手の破滅を願ったことまではなかったので結局はたいした嫌悪ではなかったのだろう。最後に残ったのは、ただ親子であるという関係のみだ。

血の濃さなど感じたことはない。親子だけのつながりなど知らない。
でも、親子という関係はなくならない。

アムロのセリフを思い出す度に、不孝な子にとって親の災息は絶望なのかもなあ、とぼんやり思う。もっとも、ろくでなしのくせに悪人になれない自分が卑怯なだけだという気もする。